スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
line

新潟県中越地震 救援活動 その後

11月 2日 火曜日

 8時30分病院の大会議室にて第2斑に申し送りをすることになっていた。
 始めに事務所に立ち寄ると事務長が代わっていた。○山さんや事務所のスタッフに挨拶する。○山さんはスーツにネクタイ姿だ!似合わない!理由を聞くと新事務長に挨拶するためだという。同じ挨拶でも私の格好は・・・。
大会議室に行った。院長と○瓶さんと事務の○上さんが来ていた。
 第2斑のメンバーは、医師が○田先生、看護師が○栖さんと畑さん、事務が○谷さんだ。表情からしてだいぶ緊張している様にうかがえる。看護としては一人が診察につき、一人は問診するように、また地域性があり、自分の気持ちを抑えている人がかなり多いと伝えた。
申し送りの後、車に荷物を載せたが、必要以外の物を降ろした為、後部座席はだいぶ余裕がありそうだ。

まとめ

今回の救援活動の中で特に感じたこと
 阪神淡路の震災と違う面がいくつかあるように思う。ただしこれはあくまで個人的な感想であり、また十日町市との比較である事を始めに言わなければならない。小千谷市や川口市、長岡市や山古志村との比較はできない。
 住民について、まず強い余震がいつまででも続いていることだ。これによって被災者は長い間余震の恐怖にかられており何時まで続くのかと嘆いている。余震によって家には戻れず避難所生活を余儀なくされていること。また車での寝泊まりが非常に多かったことがあげられる。これらのことからものすごいストレスがあると思われる。また、小児が精神的ダメージを受けているケースや精神的ストレスから来る血圧の上昇・不眠・不安が多かった。季節の変わり目と避難所生活やテント・車内生活という環境の変化から体調を崩す者も多かった。
 保健師の対応については、神戸では都市化しており、隣に誰が住んでいるか判らないような状態の中、災害があっても他人同士が避難所生活をしているため、保健婦の把握ができにくい状況にあったと思う。しかし十日町市は田舎といっては怒られるが、住民同士が良く知っており、保健婦も顔なじみである。このため常に情報が伝わってくる状況であった。
私たちの知り得た情報は全て十日町市の保健師に渡すようにしてきた。診療録や記録物を渡し、今後も継続してサポートが必要な患者をリストアップすることも大切である。
 他の医療チームとの連携が取れていたこと、それには保健師の役割も大きかったし、携帯電話が使用できることもあげられる。保健婦からも『こころのケアーチーム』が入っていることを伝えて頂いた。お互い情報交換ができる
スポンサーサイト

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line

新潟県中越地震 救援活動 その後

11月 1日 月曜日

 今日はお休み~。
朝、久しぶりに犬の散歩に行くと、当たりはもう紅葉して葉っぱも散っていた。
『出掛ける前はこんなんじゃなかったのに!』時間の流れは速く、確かにこの一週間はあっという間に過ぎてしまった。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line

新潟県中越地震 救援活動 七日目

10月31日 日曜日

 6時00分 起床。朝のいっぷくに正面玄関に出てみた。駐車場に『肩たたきマッサージ隊』と書かれた車が止まっていた。『な~るほど!』と感心する。また、クロネコヤマトの宅急便が5台位各避難所に配達するように並んでいた。日頃の運送技術が役に立つのだろうなと思う。
玄関入り口の災害受付のところで住民がなにやら役人に大きな声で食ってかかっていた。しかし、たいしたもんだ、住人の話を頷きながらも最後まで全部聞いてから答えている。
 ○○病院が避難所になったら寝具とかはどうなるの?綿久のやつを使って良いのかな?素朴の疑問だが重要な事だと思う。
今日は診療はせず帰るだけであった。気分的に何か楽だ。みんなで相談した結果、せっかくなので小千谷市に行ってみようということになった。情報によると既に道路の復旧は済み長岡までは行けるようである。
NHKが取材の申し込みに来た。埼玉放送局の記者だ。しばらく○沢先生が取材をうけて帰ってくる。するとどういう訳か、私が呼ばれた。阪神淡路の救援活動に行ったことを先生が話をしたようだ。記者から今回の震災と阪神の震災の違いなどを聞かれた。強い余震が続いてみんながおびえていること、都会と地方では住民の結束が違うこと、保健師にも精神に力を入れてくれていることまた連携も素晴らしかったこと、コーディネーター役が必ず必要なこと等、思いつくことを喋った。記事が何時どこで使われるかは判らないが、良い経験をした。
つくづく名刺を作って持ってくれば良かったとふと思った。
 今日は日曜日ということもあるせいか、市役所の前のボランティアの受付には若者を中心に大勢のボランティアが県内外から来ている。
五十川保健師とそこにいた数人の方に引継と御礼を言って十日町市役所をあとにした。
★ボランティアの受付
E784A1E9A18Ciugku.jpg

 ○山さんが病院を出てからずっと運転してお疲れのようだったので、私が運転をすることになった。国道117号線を北へ車を走らせた。小千谷市に向かう道地は途中土砂崩れで通行止めになっており、魚沼橋を渡ったところから迂回路を通って雪峠を行くことになった。田園地帯であるが小さな集落が点在している。民家も傾いている家や屋根にブルーシートを張ってある家が多い。その道もなかりひび割れや段差が生じていた。道路がうねり、陥没し、引き裂かれたような所もある。つくづく地震のこわさを痛感した。関越自動車道は通行できず復旧工事をしていた。再び国道117号線に戻り小千谷市市内に入った。完全に家が倒壊している。
★いたるところに・・・
E784A1E9A18Cjyg.jpg

E784A1E9A18Ckhtfljy.jpg


★倒壊した建物
E784A1E9A18Cuyjflju.jpg

 繁華街を過ぎて再び信濃川を渡り上越線の小千谷駅に向かった。駅前商店街の店もだいぶ傾いたり、つぶれたりしている。
 上越線の横を走る国道291号線をしばらく走っていると道が半分ズレ落ちているところがあった。『これはひどい!』ここは断層が走っていた場所らしくあちこちでひび割れや段差ができている。錦鯉の産地と言うが通り沿いにある店の池巣には既に水が無かった。
 小千谷大橋を渡るときだった。右手に大きく崩れた場所があった。連日報道している、土砂暴落で親子3人が生き埋めになり、男の子だけが助かり、女の子はまだそのままの状態になっているという現場を見てきた。大量の土砂や大きな石が転がっている。ほんの数秒そこを通りかかっただけなのに・・・運命と行って良いのか!人間では予測が付かない災害だ。
★がれきの中には・・・
E784A1E9A18Ckkljk.jpg

橋をを渡った所にセブンイレブンがあった。昼食を買うために駐車した。断水なのか駐車場にトイレがあった。
 左側のトイレは便で汚れているが、どう考えてもおかしな位置に着弾している。私の想像だがおそらく震度6クラスの余震の時にあわててしたものと思われる。駐車場でみんなでお弁当を食べた。ちなみに私は塩カルビとサラダとゆで卵だった。二瓶さんから電話があった。正直に現在地とこれからの行動を伝えた。松本に入ったら電話を欲しいとのこと。○谷さん○○さん○上さんが出迎えてくれるようだ。
E784A1E9A18Chh.jpg

 車は市内に入った。完全に倒壊している家も見られる。どう見ても悲惨な状況だ。ここの家の人は大丈夫だったのだろうかと心配してしまう。商店はみんなシャッターが下ろされているが、ゆがんでいたりしている。開いていても中で品物の片づけに追われているようである。
表通りがこうなら裏通りはどうなっているだろうと想像してしまう。
 長岡市に出た道を走っていると報道にもあった新幹線が見えた。まだ撤去されずそのままの状態になっている。★停まったままの新幹線
E784A1E9A18Clygl.jpg

 長岡の郊外も所々屋根にブルーシートが掛けられており、一目で震災が会ったことが判る。電信柱も傾いている物がいくつもあった。町中の大きな交差点には必ず警察官の姿がある。 国道8号線を走って行くと信濃川のほとりに大きな日赤の建物が見えた。近代的なというより高層ビルのようだった。
 長岡インターで高速道路にのり、一路病院に向かった。高速も所々陥没やひび割れがあり、スピードを出せば飛びあがる位の段差もある。米山のサービスエリアに寄った。ここからは海が見える。何となくほっとできる。さすがにここまで来ると原山さんのけたたましい携帯のメロディーはならなくなった。
 運転を○島さんに代わった。みんなで糸魚川に行こうとけしかけたりしたので本人もだいぶ迷ったようだが、緊急自動車通行証があるので悪いことはできないことに気づく。長野自動車道に入ると周りの山々は既に紅葉していた。十日町では見かけなかったと言うより我々は建物や道ばかり気にしていたから周りを見る余裕が無かったのかもしれない。
 豊田飯山に来た。ここはトンネルの多い場所でトンネルの中は携帯の電波も届かない。こんな時にいきなり○山さんの携帯が鳴った。ビクッとする。私は揺れと音に反応するようになってしまっていた。内容は十日町の保健師からで、診て欲しい患者がいると言うが、○山さんが丁寧にお断りし、新潟県立病院のチームにお願いするように依頼した。ここまで頼りにされるとは・・・。その後私の携帯が鳴った。○瓶さんからだ。現在地を聞かれた、思わず「岡谷です!連絡しなくてすみません」と行ってしまった。みんなから「岡谷じゃないよ飯山!」と言われて大笑い。○山さんは私が大ボケしていると思ったらしい。
善光寺平らが見えてくる。
 伊那インターを降りて○沢先生の自宅まで行った。どうしても建物や電柱、道路を見てしまう。数日の間にどうも癖になってしまったようだ。
17時 ようやく病院に到着。期待していた出迎えはなかったが、到着を伝えると全員出てきた。とりあえず私物を降ろし自分の車に乗せた。病院の事務室の前のひび割れを○山さんと見て、「これは危ないよ!」と行ってしまった。
 その後、総師長室で簡単な報告を行った。当直の○原先生も来ていた。
特に十日町市の様子や現在の医療体制を伝え、持って行く必要物品のリストを渡した。とても寒いので自分の健康管理には気をつけること、保健師との連携が大変重要なので○谷さんの役割(コーディネート)が大切であること等を伝えた。
帰りがけに久しぶりに病棟に寄った。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line

新潟県中越地震 救援活動 六日目

10月30日 土曜日

夜中1時30分に余震があった。庁舎内の放送がかかり「震度3の余震がありました」とスピーカーから流れた。
6時30分起床する。昨夜から
この日の朝食に25㎝位の正方形の弁当のような物がいくつも段ボールのような物が入っていた。風呂敷のような物で包んである。即私は手にして確保したが、中身を見た方がよいと思い開けてみた。なんと結婚式で使うようなソーセージの詰め合わせだった。
 9時00分 川治小学校へ向かう。
 9時30分 南小学校に到着
 福島県立医科大学の医療救護班が常駐していた。早速コーディネーター原山が状況を伺いに出向く。体育館の中には避難者が多くいた。体育館のギャラリーの窓ガラスにはガムテープが×印に貼られている。余震による破損や落下を防ぐためだ。壁には6月27日付けで「応急危険度判定結果」が張られている。ここにも産経新聞の記者がいた。神奈川県から派遣された警察官の姿も見えた。被災者と言葉を交わしている。
キナーレという所に行ってみた。ここは新潟労災病院が常駐している。原山さんや先生が医師に話をしようと試みるが軽くあしらわれたようである。『何者!』という感じだったようである。ここは今は避難所ではなく救援物資の配給所となっている。多くの人が列をなし、受付に住所と名前を書き込み、必要な物を申し込むと頂けるようである。入浴施設も有るようだが現在はやっておらず入り口に自衛隊の入浴施設?が有った。駐車場の係りの人は長野県の県職員らしい。
★配給を受ける人々
配給

 11時30分 市役所に戻る。保健師から1名診察の依頼があり診察室前の消毒室を借りて診察を行う。
廊下にあった食品のカロリー計算の棚が壁から10㎝ぐらい離れ中の物はみな崩れていた。
 12時30分 診療が終わり市役所内でお昼。この日のメニューはラップで包んである手作りおにぎりが有った。「米にありつけた!」バナナもあり普段食べない紀州の梅が本当に美味しかった。味噌汁がないためカップラーメン(辛味噌)を食べた。期待していたおにぎりは日が経っているのか硬かったため、カップラーメンの残り汁に入れて辛味噌雑炊にして食したが、何とも奇妙な味と食感だ。
 13時5分 中日新聞長野支局から先生が取材を受けた。写真を撮らせて欲しいと言われるが一生懸命断っていた。結局中日新聞には記事は載らなかった。ちなみに私も取材されたが・・・記事になったかはいまだに不明である。
 14時00 分市役所から南小学校へ向かった。そこには愛心会大隅鹿屋病院のドクターカーが来ていた。保健師によると市役所を通さずに勝手に避難所を回り診療しているとのこと。やりっ放しなので、どんな治療が行われその後のフォローのしようもないと嘆いていた。
気になっていた患者は1名は帰宅し、1名は経過観察であった。
14時47分 八箇に来るがやはりここは誰もいなくなっている。ちょうど現場にボランティアの車が通りかがった。ついでなので少し山間に入っていくと。写真のようにアスファルトの道が縦に長く数十メートルに渡ってひび割れていた。1メートル位中がのぞける。この頃から小雨がぱらついてきた。○山さんが「雨が降ってくるとやばいよ!」「絶対崩れるよ!」というため、血相を変えて逃げ帰った。
★ひび割れた舗装
舗装
                                           
 本日の巡回が一応終了したのでもう一度中条病院へ行ってみることにした。どこが倒壊したか知りたかったからだ。正面からは多少ひび割れがあるが、入院患者全員を避難させるほどには見えなかったからだ。
病院の裏に回ってみると一階の部分が×印にひび割れが入っており、倒壊しそうなとても危ない状況だった。
★建物には無数の亀裂が
亀裂
これを見て、「○○病院の建物は耐震性もなく大きな地震が来れば倒壊するな!もっとひどくなるぞ!」と思った。
帰りの道で長沢先生は具合が悪くなり、悪寒を訴えた。熱を測ってみると37.2度もあるではないか。やっぱり疲労が重なったな!
 16時00分 市役所に戻り保健センターによって長崎県の医療チームからソリタT3/500をもらい点滴を開始した。(先生が希望したビタミン剤は無かった)看護師が医師に点滴する姿は滅多にお目に掛かれない。廊下にあったシャーカステンに鞄のベルトで点滴を下げている。結局、他の医師から「2本はしないと駄目だ」と脅かされる。点滴中何十回となく鼻をかんでいた。
 休んでいると○山さんのけたたましい携帯が鳴った。NHKからの取材の申し込みだ。明日朝7時に取材を受けることになった。先生は状態が良かったらと控えめである。
 18時過ぎ役場の職員が休憩室に入ってきた。先ほど災害対策本部で記者会見をしたようだ。その要旨の紙を持って来てくれた。『明日12時に避難指示が出ているところを除き、避難勧告を解除する。避難所は11月3日迄開設、11月4日から保育所・小学校・中学校を再会する』というものだった。つまり「学校に避難している人たちを何処かの施設に移動する」というものだ。第2斑の巡回場所も変更になることは間違いない。早速○山さんが病院に連絡する。
 先生は食欲がないといったがとにかく栄養のある物を食べ誘うとコンビニに出掛けた。コンビニで買い物をして帰った。
しばらくして点滴が終了し先生も「だいぶ楽になった」といいみんなで食堂に行って食べた。私は中華丼!と野菜サラダ!(なぜか食べたものは思い出す)
 時間があったので第2斑に必要な物品と持ってきたが要らなかったものを書き出した。先生には医薬品を書き出してもらった。その後、先生は臥床したのだが隣の自衛隊の部屋から笑い声や大きなしゃべり声が聞こえてきて、とても気になったらしい。
○山さんもデパスを勧められて(私も勧めた)眠りに入る。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line

新潟県中越地震 救援活動 五日目

10月29日 金曜日

 6時30分 起床。なんだか目覚めが悪い、それは巡回診療の夢を見たからだ。精神的にかなり疲れてきた様だ。夜中揺れを感じる地震は無かった。ここしばらく余震はないようだ。○沢先生は不眠だったようで、「夜中の1時頃も物資の搬入の車の音がしていた」という。また先生は鼻水が出るようで病院から持ってきたPLを飲んだりしていた。
保健婦から我々の巡回する場所をタイムスケジュールで出して欲しいと依頼される。みんなで集まり早速検討、結果7~8カ所を予定した。中にはこれまで診療した患者をリストアップしその後の様子を伺う予定も入っている。★整然と並んだ食料品
E784A1E9A18Cuyjfhb.jpg

 つくづく腕章があればいいと思う。というのは白衣を着ていなければ被災者と変わらないからだ。原山さんなんかは着る物からして役場の職員にも見える。
 この日は朝からカップラーメンだった。他にお米などは無い。聞くところによるとここの食堂のものは避難所に持っていって、そこに余っていたものを職員が食べているのだとのこと。無理もない。1.5倍の豚骨味を食べた。この日から各テーブルには、誰が置いていったのがビオフェルミンやビタミン剤が置かれていた。また栄養ドリンク剤もあった。ビタミン剤とドリンクを頂いた。NHKのニュースを見ていると十日町役場前から生中継でリポートをしていた。
 須坂病院の先生からの情報では、須坂の第2斑とこども病院のチームは震災の激しかった小千谷市の車の行けないような所を巡回しているそうだ。寝るところも被災者と同じ場所のようだ。我々の場所はかなり恵まれているのだと痛感した。
 8時45分市役所の駐車場から車を出そうとした時、エンジンがかからない!みんな呆然としてしまった。バッテリーが無くなったかと思えば電気はつくし・・・原因が判らない。何回か掛けてみるが反応がない。私が変わってみた。マニュアル車なのでもしかしたらと思い、シフトレバーを入れて揺すってみた。エンジンを掛けると見事復活!「良かった!第2斑が来るまで足止めかと思った」とみんなで歓声を上げた。今後この車で大丈夫なのかとても心配。それとこの時にクラッチペダルのゴムが破れて取れてしまう。ボロボロの車だけど、頑張って動いてくれないと困るのでだましだまし走らせることにした。(本当はそんなことは出来ないのだが)
 9時頃 六箇小学校に出向く。
 体育館にはいると前回訪問したときとあまり変わらず避難所暮らしをしていた。体育館に寝たきりのようなお爺さんがいた。家の人はいないようだが、どうも周りの人が言うには、「床ずれがあって痛いようだ」また「介護保健の人が来て、保健室のマットを使用していたが、それじゃ駄目!と普通の布団にしていった」という。とにかくどのような状態か診ないといけないので、お爺さんに声を掛けた。なかなか話が通じない!耳もかなり遠いようだ。下島さんと顔を合わせ「円座でも作ろうか!」といった。これは保健師に連絡して相談しないと駄目かなと思ったが、本人の横には杖が置いてある。『???歩けるの?じゃ床ずれは?』保健室をお借りして先生に見てもらうことにした。『あれ!歩けるじゃん!ゆっくりだけど歩けるじゃん!』ビックリした。診察すると床ずれの古傷はあるが、新しいものは見あたらない。家族がビックリして駆けつけるが、歩行を進めることと痛いようなら少しマッサージするようにアドバイスをした。
 10時30分 十日町小学校に出向く。そこには既に埼玉県から派遣された保健師が健康相談を行っていた。この行動は市役所の保健婦から聞いて知ってした。
 11時に終了し、市役所に戻ってきた。保健センター内にある避難所の診療を行った。数名に声を掛けるとやはり血圧が心配、風邪気味だ。と言う人が多い。
そこへ近所の男性が小学校1年生の男の子をつれて入ってきた。「気持ち悪いと言っているが診て欲しい」という。検温をすると39度6分もある。両親は自営業をやっていて家にいるという為、男性に連絡を取って欲しいと依頼し至急保健婦に連絡。行きつけのお医者さんに受診するように依頼した。既にこの頃はほとんどの病院は開業している。
 13時00分 ようやく昼食を摂ることにした。この日になってようやく食堂のガスコンロが使用できるようになったので、食堂にあったサトウのご飯と病院から持参したレトルトの中華丼とカレーを鍋で温めさせてもらった。やはりお米好きの私にとってはたまらない。
14時10分 十日町中学校へ出向く。保健からの依頼で「車の外から出られない人がいる」ということだった。玄関先には車で移動できるパン屋さんが無料でメロンバンを焼いていた。とっても香ばしいにおいをばらまいていた。
 5名ほど診療を行った後に娘さんに会い話を聞いた。一昨日の余震の時、近所の人と中学校の3階で話をしていた。その後「自分が建物の中で話をすると地震が来る」と被害的に訴え、その後は車の中で生活を続け娘さんが促しても全く車から出ないという。原山さんがそれとなく接触するが車から降りようとしないようである。
 本人はグランドの駐車場に車の中にいる。とりあえず白衣を脱いで先生と下島さんが接触、結果的には「私が他の人と話をすると地震が来る」と妄想的になっている。避難する場所を違う場所にすることで納得した。
だいぶ当たりが暗くなってきた。保健婦らの情報で『子供が震災の夜に嘔吐し、現在家に戻ろうとすると恐がり家に入れない状態』とのこと。NTT跡の敷地に行ってみた。立派なテントが用意されていたが、聞くところによると日曜日に商工会のイベントが開かれる予定があり、土曜日の日に準備がされていたところに地震があったようだ。そのまま自治会でテントや場所を提供してもらったようである。横にはお寺さんがあるが震災で灯籠や石塔等かなりのものが倒れている。ここをまとめているのは自治会長で日報の記者をしたことがあるらしい。被災直後は大勢の人がやってきたが、今一番の問題は後から入ってくる人と始めからいた人とのトラブルや炊き出しをしている女性の役割の不満、夜間の住宅の見回り(不審者や泥棒)をせざるを得ないことだそうだ。しかし、ちゃんとトラブルを解決できる人がいたりして、何とか乗り切っているとおっしゃっていた。伊那の建設会社の人が来てジェットヒーターを置いて行ってくれて大変ありがたいと言っている。
 次に総合体育館に出向く。子供が2名風邪を引いたので診て欲しいと来たが、小児用の薬は持っていないため、とりあえず検温をして開業している病院を紹介した。老女が相談に来た。『75歳の男性、大腸癌で7年前に手術をした。中条病院に入院していたが震災のため避難所に移された』という。また『近々検査の予定もあった』とのこと。コーディネーター原山に至急保健師に連絡を入れてもらった。専門の医師の診察が必要であることを伝え折り返し電話があった。宮崎県のチーム(内科医)をここに派遣する事になったらしい。しばらくすると医師が来て早々に診察(体育館の中)、顔面蒼白ですぐにでも輸血が必要とのことだった。
診療も終わり途中コンビニに寄った。産経新聞に先生の記事が載っていた。ついでに弁当を買い込み夕食を食べた。
本日の診療は22名にだった。市役所に帰って休んでいると宮崎県の医療チームが帰ってきた。その後の経過を聞いた。
本日から宮崎県チームが保健センターに常駐するようである。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line

新潟県中越地震 救援活動 四日目

10月28日 木曜日

 早朝の4時頃だったろうか、日赤の人が急にうなり声をだした。てんかん発作なのか不明だが、あわてて電気をつけた。みんな飛び起きて見てみると、うつ伏せの状態で顔面蒼白で口唇チアノーゼが来ている。周りには医師がいるので心配ないが、日赤の医師が指示を出した。(まだ若い)看護師に「AとBセットを持って来て!」という。しばらく呼びかけには反応がないが、苦しいのか動き回ろうとしている。医師によると「夜中凄いイビキをかいて眠っていた」という。アルミケースのようなものが運ばれてきた。どうやら救急セットのようだ。またケースを開けると小型の酸素ボンベが入っている。マスクをあて、ホリゾンを筋注していたが余計に呼吸抑制が来るんじゃない?と心配した。しばらくして意識も戻り反応も出てきた。救急車も呼ばれ担架で運ばれて行った。
 7時30分 食堂にて朝食を摂取。今日の主食は・・・と見渡すと『やっぱりカップラーメン・・・』テーブルを見ると『ラッキー!』大量にいなり寿司が置いてある。それを有り難く頂戴しインスタント味噌汁を作り食べた。
朝食後、喫煙をしに庁舎の南側に出た。そこは隣に二階建ての古い鉄筋立ての建物があり倉庫になっている。ちょうど二階へ上がる鉄製の階段があり、真下が喫煙場所になっている。また、庁舎から出たゴミの分別収集場所になっている。そこで○島さんと喫煙していると「ガタガタ」と凄い音がした。周りにいた市の職員が「わー地震だ」数名が叫んだ。私は思わずそこから立ち去ろうとしたら、なんと自衛隊員の数名が階段を下りてきた。もうビックリだ!。音にも反応するようになってしまった。その後みんなで大笑いをした。だがそこから庁舎を見上げると壁に使用しているガラス片が多数掛けている。 
 ○沢先生は産経新聞の取材を受けた。
 打ち合わせに保健婦の所に行くとミルトンの入った段ボールが物資が大量に運ばれて来た。ボランティアでお手伝いをした。壁には刻々と変わる病院の診療状況が書かれた模造紙があちこちに張ってある。
8時50分 市内を通りサンクス(シルバー人材センター)に巡回。近代的な建物で地震の影響は全くない。代表者は「今出勤したところです」と言っていた。被災者はあまりいなかった。
9時50分総合体育館に移動。本来の通常の受付が災害の受付にもなっている。ロビーには毛布が敷かれ被災者が横になっていた。
66才の女性は震災後4日間車中で過ごし不眠が続いているという。また風邪症状を訴える方もいた。9時45分 診療を終了。
9時55分 川治小学校に到着。保健室にて診療を行う。血圧だけを測って欲しいという人も数名いた。やはりここでも老人の言葉(なまり)があり聞き取りづらかった。学校のような避難所は保健室を使用できるのでありがたい。
学校
 ここでは事前に保健婦に配布してお願いしておいたチェックリストが役だった。
 ①小学4年生の女の子(3人姉妹の長女)で母親からの相談だった。地震によってかなり本人はショックを受けている。ぼんやりとして反応がない。母親としてどう接して良いか・・・。という相談だった。『震災の時一人で家にいた。机の下で止むのを待ち外に出て近所の人や母親と合流した。その後一日目の夜は落ち着かず、2日目の夜は車の外をグルグル徘徊することがあったが本人は覚えていないらしい。3日目の夜は祖父母宅に泊まりよく眠れた。昨夜は中途覚醒がありボーとしていた』母親は『できる限り一緒にいてあげるようにしている。余震の時は落ち着くまで抱きしめてあげていた』という。実際診察してみると本人はわりとしっかりしておりハキハキとした対応であったが、『一人だと不安だが、友達と一緒にいると幾分良い』という。坑不安薬が処方され一応県立精神センターも紹介しておいた。母親の対応が素晴らしかったとつくづく思った。
 ②小学3年生の女の子(3人兄弟の長女)昼間は正常だが夕方5時30分頃になると不安になり23日以来、毛布を持って逃げる行動が2日間あり(本人は覚えていない)また、長男6才は夜泣きをするようになった。次男6ヶ月は震災をきっかけに母乳が出なくなったのか、飲まなくなったのか、すぐに授乳を止めてしまう。母も不安があり脱毛も出てきた。子供の対応が不安だと訴える。診察中長女はわりと元気な言動であるが「また揺れたらどうするの?」「揺れない場所に行きたい」などと次々に不安を訴えた。このケースも①と同様に処方とセンターを紹介しておいた。共に長期的なフォローが必要なケースだ。
新聞

 11時頃、校内放送で救急車が来るので車の移動をして欲しいというアナウンスが流れた。「あれ?急病人は見あたらないし誰か呼んだの?」後で解ったことだが、原山さんによるとサイレンを鳴らさず救急車は来たが、茅ヶ崎の病院の救急車、降りてきたのは背広を着た役人だったらしい。救急車を公用車代わりに使っているらしい。聞いてビックリだよ!
 12時00分 診療が終了した。8名の診察と血圧を測ってあげた方が2名いた。
 12時15分 いったん市役所に戻る。
原山さんの携帯に電話が入る。産経新聞の記者より取材の申し込みの様である。病院に確認すると、『現地での対応で良い』とのこと。一階のところで取材を受けた。
 14時30分 十日町総合高校へ出向く。ほとんど人はいない。
 14時55分 城之古集会所。被災者はいない。自宅にいる人が多い。2名のみ非難しているらしい。
 15時00分 谷内集会所 ここにもほとんど人はいない。
 15時05分 川治保育園 テントと車が数台停まっているのみで被災者はいない。
 15時10分 山本常楽会館 ここにも被災者は数人だけ。近くにお墓があるが石塔がいくつか倒れている。小学生の低学年だろうが庭にシートを敷き遊んでいる姿が目に付いた。近くにいたおじさんが「昼間はみんないないよ!飯を食べに帰ってくるだけだ。みんなバラバラ何処かにいっちまう。何人いるかもつかめない」と嘆いている。
立正校正会は場所が解らず見送ることにした。
 15時20分 創価学会は人の出入りはあるが避難者は少ないようだ。
いったん活動を中止し夜間の活動も考え、隣町(中里村 長野県と隣接)のミオンという入浴施設に出向いた。こちらの方は全く震災の被害がないように見える。コンビニはもちろん、食事処やお店も通常通りやっているし家屋の損傷も見あたらない。ただ施設に行くには細い道を通り信濃川を渡るが橋の両側は段差が生じている。
★ミオンという入浴施設
温泉
 一般入浴は大人500円茶色をしたツルツルした温泉である。十日町市から来たと思われる人が大勢いた。消防団の姿や小学生から若者の姿も見られる。履き物をると長靴を履いてくる人もいる。みんな心と体を癒しに来ているんだなと思う。次回無料券を頂いた。暇を見つけて来ようと思ったが、結局今回の入浴だけで再びここに来ることは出来なかった。入浴時間も夜の8時迄だったことも原因だが・・・惜しいことをした。
帰りの車中で○山さんの携帯が鳴った。保健婦からで急きょ役場に来て欲しい「躁状態の患者さんが来ているので診て欲しい」との連絡だった。
18時10分 市役所横の保健センターの診察室に向かう。保健センターも地下1階地上3階建ての建物でわりと新しい建物である。また各階は市役所とつながっている。診察室にはいると60代ぐらいのおじさんが調子よく喋っている。どうも今までお酒を飲まなかったが疲れもたまり眠れなくなったので、昨夜お酒を飲んだらしい。しかし眠れず周りからもお酒を勧められ飲酒。次第に躁状態となり、周りの人も「これはおかしい」と保健センターに相談に来たようだ。アルコールの解毒が必要なため保健師と相談。中条第2病院に紹介することになった。診療を終わりフッとシャーカステンの向こうに目をやると、なんと医療材料やら薬、点滴など全てがそろっている。どうも他のチームがここで常駐診療をするためのものらしい。この時点では診療はされていない。
 20時30分 ようやく市役所に戻る。○沢先生は診療録をノートから書き出し、処方内容と今後フォローが必要かどうかを書き込んでいた。以降これが長沢先生の毎日の日課となる。それにしても○島さんはお菓子好きでよく食べていた。○山さんは、本日の活動報告(日誌)に行った。
本日の診療は15名、精神と判断できるもの11名だった。
 保健婦や市の職員は自分のディスクの横の床に毛布を敷いて順番で泊まり込みをしているようである。五十川さんは言った「職員も全員こころのケアーが必要だ。不眠不休で対応したり、苦情処理でかなりイライラしている」という。確かに解るような気がする。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line

新潟県中越地震 救援活動 三日目

10月27日 水曜日

 夜中の0時30分余震を感じ目が覚める。かなりの揺れで全員目が覚める。4時にも大きな余震があり、やっぱり目が覚めた。これじゃ被災者は不眠になるはずだ。
 喫煙をしに玄関へ行った。朝からマスコミが報道していた。ピースをしようかとも思ったが県職員で仕事中であることを思い差し控えた。寒さは駒ヶ根と違いかなり冷え込んでいる。テント生活をしている人にとっては、かなりきついだろうと思う。庁舎の前の道を挟んだところの会社がボランティアの受付になっていたが、この頃はあまり人は見かけなかった。
市の職員はあまり眠っていないようだ。目が落ちくぼみ表情に何処か疲れがにじみ出ている。
★物資の搬入をする職員
搬入

 朝食は病院から持ってきたものを地下の食堂に持って行き場所を借りて食べることにした。せっかくなので乾パンを食べることに。缶切りは一個一個に付いており早速それを使って開けてみた。当たり前だがやっぱりパンだった。救いは葡萄が中に入っていたことぐらい、そんなに硬くはないが柔らかくもない。ボソボソした感じで不味くはない。初めての味をかみしめながら完食した。食堂にもテレビがありみんな地震の報道を見ている。
ちなみに、この日のお通じは快調だったが、右膝が痛い私にとって和式はきつかった。しかし使用後によく見ると『様式も有るじゃん!明日からはいいぞ!』と喜んだ。
 8時57分 健康保健課に出向き、五十川さんから保健師を紹介してもらった。コーディネーター役は○山さんにお願いした。早速打ち合わせをしている。
★ひび割れた建物
E784A1E9A18Cytggv.jpg
 市役所の横の建物を見るとかなりひどくひび割れがある建物があった。よく見ると壁はブロックで積み上げてある。また歩道は陥没していた。
その後、市役所に近い十日町高校に出向いた。市役所から見えた学校だ。グランドに数台の車が置かれており、入り口近くに避難所の本部が置かれていた。昨夜からの雨でグチャグチャのグランドに車を入れたが、出られなくなる恐れもあり、生徒側の玄関に車を止めた。診療道具を持ってきたクーラーボックスに必要と思われるものを入れ、先生は白衣、○島さんは予防衣に着替えいざ出陣。
★校庭のグランドに避難
避難
 グランドからも物資を運び入れるらしく、シートが引かれている。コーディネーター原山が早速グチャグチャのグランドを駆け抜け本部に出向く。消防の法被をきた若者が非難している場所(武道館や実習室)を丁寧に案内してくれた。なかなかの好青年で挨拶もしっかりしている。
 早速診療開始、といってもここが初めてなのでなかなか要領がつかめない。とにかく被災者の所に行って話を伺うしかない。小学2年生の子供が具合悪そうに横になっていた。日曜日から腹痛と嘔吐がある様だ。子供は長沢先生が診察後、救急車で病院に搬送されて行った。また1名は内科へ紹介することになった。野菜の摂取が出来ないと便秘を訴える婦人もいた。
 10時30分 地図を基に六箇という地域にある小学校を訪ねた。市役所から約7キロ離れた県道82号線にある山間にある静かな分校だ。
 小さな学校にしては建物はしっかりしており新しい。学校の横には温泉付きのデイサービスセンターもあった。学校の玄関前にテントがあり受付をしていた。原山さんが事情を伝えてくれる。玄関から入るとアテネオリンピックのレスリングに関するものがかなり張ってある。中には出場選手の全員のサインもあった。玄関横に体育館があり(病院のレクセンの三の二ぐらいの広さ、しかし最近の建物)
 中にはいるとかなり大勢の人が避難しておられた。老人や子供も居る。先生と思われる人が子供達をまとめていた。と言っても分校なので人数は30人ぐらい。診療に入る前に保健の先生から話を伺っているときである。10時40分、かなり大きな余震が来た。ゴーと地鳴りがして立っていてもふらつくくらいである。しかも揺れの時間が長く、おさまると思うとまた揺れるといった感じ。「きゃー」「また来た」などと被災者は叫びながら動ける人は体育館から外に飛び出していった。私たちも迷ったが結局何もすることなく立ちすくんでいただけだった。また寝たきりの老人や歩くのがやっとと見られる人は、付き添いの人と共にポツンと残されていた。体育館を見渡すと二階の窓はカーテンがしてないため、窓ガラスが割れて落ちてくることを考え、学校の先生と相談し、階段をよじ登りカーテン(暗幕)を閉めた。
 その後、○沢先生が小学生の診察に入った。中学2年生で以前からデプレッションで内科受診をしていた男の子を診察。震災後から表情乏しく口数も少なくなった。坑不安薬を処方したが、その後この患者は10月28日に虫垂炎にて入院となった。
 11時すぎ頃(記録がない)市立南小学校へ出向く。
移動中、ここ十日町市は冬になると2メートル近く雪に覆われるようだ。どの民家も一階部分は駐車場や物置になっており、2階部分に玄関がある。三階建てに見えるから、一見豪華に見える。
市立南小学校は先ほどの小学校よりかなり大きな学校だ。正門の門柱は地震の揺れで大きく移動してしまっていた。
★移動した門柱
門柱

 この地域は水道が止まっており、トイレは駐車場の敷地内に5つほど置いてある。女性が一人バケツとブラシを持ってお掃除をしていたのが印象的だった。車は建物から離して置いてある。
さきほどの大きな余震の為か、腰が曲がり少々小太りの老婆が手押し車を引いて非難して来た。私に何か話しかけてくれるが方言が混じっているため、結局何を聞きたがったかいまだに解らない。
75才の女性は「外へ出ると震えが来る。家の中はガラスでグチャグチャ、今日の大きな余震で不安」と訴える。他に血圧が高い患者さん数名を診察する。
 診察も終了し、ここの駐車場でお昼を食べることにした。持ってきたガスコンロと水でお湯をわかすが、なかなか沸いてこない。誰かが「標高が高いからだ」と言うが本当だろうか?この時とばかりに病院から持ってきたアルファー米を食べようと決め、早速未開封のビニールの包装を取り、段ボールを開けてみた。とにかく作り方も解らないので説明書をよ~く見ると・・・・なんと50食分を一度に作るようになっている。小分けにしても良いが、真空パックで封を開けてしまえばもったいないことになる。みんなで大笑いやらショックやら・・・。仕方なくこの日の昼食は持ってきたカップラーメンになってしまった。私は豚骨スープ味で麺が硬かった。味のりを○島さんとバリバリ食べたのを思い出す。(私の好物の一つ)
13時40分 南小学校を跡にし十日町小学校へ出向く。
ここは小高い河岸段丘の上にある小学校で町が下の方に見える所だ。来る途中の道は至る所で亀裂が入っていた。運転の原山さんがキモをつぶした最初の場所かもしれない。「わー」と言って素早く通り過ぎた。
 ここの避難所は小学校の体育館と一部の教室が使われていた。体育館の上にあるグランドに車で寝泊まりをしている人もいるようだ。近くにいた住民に代表者を聞き、体育館に行ってみた。ここは多くの人がいるが、やはり成人は少ない。日中は仕事に出たり、非難指示が出ていない人たちが家の片づけに出たりしている。
 体育館の中はとっても寒かった。よく見れば体育館の壁の小窓が震災で割れたらしく、新聞紙やシートで応急処置をしてあるだけであるから、すきま風が入ってくる。大きなストーブがあるが、暖かい空気は体育館の高い天井に行ってしまい、効果が半減しているようにも思える。
 診察開始にあたって、そこの代表者の方に放送を掛けてもらった。これの方が短い時間の中では効率的であるからだ。体育館の用具置き場を貸して頂き、そこが応急の診療所となった。先生と○島さんは中で診療をし、私はドアの外で患者を待った。数人診療したがある高齢のおばさんは、「旦那がイビキをかくので迷惑を掛けたくない。24日から車で寝泊まりをしている。自分も夫のことが気になり体育館と車まで行き来をしている。無呼吸症候群もあり病院に通っていた。余震もあり心配で・・・・眠れないし疲れた。」と言い突然涙がこぼれだした。精神科の先生なのでよく相談したらと伝えた。眠剤を渡され、「ありがとうございます」と深々と頭を下げて帰っていった。人工肛門の患者もいた。やはり今回の震災でお腹の調子も悪くなるようで便秘傾向の様である。みんなに迷惑がかかると気にしている。
普段から不眠症の方も今回の震災で更に不眠を訴える患者さんもいた。
精神科に通院中の患者さんが非難しており、デポ剤を定期的に注射しているがどうしたら良いかと相談があった。デポ剤の持ち合わせがなかったため、とりあえず保健婦に連絡、結局中条病院(病棟は閉鎖外来診療のみ医師3名が常駐している)へデポ剤を取りに行くことになった。
 車を走らせ中条病院に向かう。市街地へ向かう途中役場の北方はやはり家の倒壊や傾き、壁が崩れたりと見た目で解る被害が目立った。コンビニや商店も開店しているところもみられる。
15時16分 国道沿いにある中条病院に到着。老健施設の臨時の外来に行き看護師からデポ剤と降圧剤を頂く。正面から見ればそれほど倒壊したりひび割れたりしているところはあまり見受けられない。この病院の患者さんは近隣の精神か施設に全員搬送されたようだ。(日曜日準夜だったが、一時駒ヶ根病院に患者の数名が搬送される予定だった)
その後十日町小学校へ戻り、診察3件行う。薬を渡す際、薬袋を持ってこなかったため、紙に包み「眠れない時」などと書き込み渡す。
街の様子
飼い猫に引っかかれたので消毒と包帯が欲しいと大騒ぎをしている人が居たが、○島さんが見たところ消毒とサビオで充分だったとのこと。
16時40分 十日町小学校から少し離れた十日町中学校へ向かった。やはり小高い河岸段丘の端っこに立てられていた。ここからも下の方に町並みが見られる。玄関を入った所の受付で診療を申し込む。ここでは代表者が「診療の場所は提供したいが校長が居るので許可を取ります。」毅然とした態度であった。校長は快く受け入れてくれた。その後、何人かが診察に訪れた。その中に中条病院に通院中の患者がいた。「実は私はこういうものです」と鞄の中から障害者手帳と薬の薬剤提供書をとりだした。話を聞くと「現在も通院中で薬がそろそろ終わってしまう。中条病院はやっていないと言われた。薬局はやっているのか心配だし、処方箋がないと薬はもらえない。どうしたら良いか」との相談であった。原山さんが保健師を通して中条病院に確認してもらう。結果、中条病院は外来は行っている。薬局も開店しているところも出てきているし、薬局は中条病院で確認してもらえれば確実と伝える。他に風邪を引いたという人が数名いた。17時30分まで診療を行い市役所に戻った。
 本日の診療は19名であった。多くは血圧の患者、風邪をひいた方が多かった。
 ○山さんは保健師に報告と明日の予定の調整、また十日町市の医療状況を把握に行った。原山さんが全ての窓口になってくれているので本当に助かるし、事務でないと対応できないと思う。病院・医務課・保健婦など調整役は全てお任せした。大変だと思うけど、それをこなしている○山さんは偉い!
 市役所の3階から見ると町の灯りは多くない。やはり夜は避難所に戻っているようである。
 日赤の人から災害時の活動などの話を聞いた。聞いただけでビックリするような設備と体勢が整っているようだ。
 横になると揺れているような感覚に襲われた。ちょうどエレベーターに乗った後の様な感覚だ。外は相変わらずの寒さだ。夜にもかかわらず次が次へと急変物資が運び込まれている。そのたびに職員や自衛隊が一緒になって搬送していた。
 産経新聞から取材の申し込みがあった。明日の朝に○沢先生が対応することになった。
line

新潟県中越地震 救援活動 二日目

10月26日 火曜日

 外は小雨ではあるがイヤな天気だった。明日の出掛ける準備を午後買い物に行き、今夜はゆっくり休もうと考えていた。
 9時前だったか、突然、家の電話が鳴った。母が「○○、病院から」と言われ、『明日のことか・・・』と思い電話を替わった。案の定、○○総看護師長からたった。「病院室から電話が掛かってきて今日急に出発することが決まったので、とにかく打ち合わせをするので病院に来て欲しい」とのこと。まだ強い余震が続くところへの救援活動は阪神淡路の時とは少し状況が違っている感じは受けとられた。あわてて病院に駆けつけた。情報が錯綜しており、当初は川口市といっていたが結果的には十日町市での活動ということになった。
 派遣メンバーは医師が○沢先生、看護課は私と○島○子さん事務で○山○雄さんが行くことになった。
 とりあえず、総看護師長の部屋に集合した。活動内容や十日町市の状況が解らないため、どんなものが必要なのかも分からない。寝場所が有るのか、電気や水道が有るのか、全く解らない。解らないづくめでの準備が始まった。
 医療班なので必要なものを準備した。今だから言える事だが、全く必要のないものが多かった。つまり第1次救急は終了し2次から3次へと移っていたのだ。ガーゼや包帯、綿球や摂氏等々こういったものは全く使用しなかった。それでも状況が解らないのでとにかく気が付くものをあげて箱に入れていった。
 事務の○谷さんが買い出しに出掛けた。カップラーメンなどのレトルト食品を中心にドリンクなどまた、先生のシュラフや長靴なども用意してくれた。病院からは毛布やシーツ、乾パンとアルファ米、備蓄用の水を段ボール5個用意してくれた。
 一旦、自宅に戻り急きょ宿泊の準備をした。登山用のリュックサックに着替えを入れ、スキーウエアーを持った。セーターを持って行こうか迷ったが、とにかく寒いと聞いていたので、とりあえず持って行くことにした。結果的にこれが幸いして比較的暖かく活動が出来た。傘とカッパをもち、履き物はやはり登山用の靴を履いた。作業用のズボンを履きボールペンとメモ用紙を入れ、絶対忘れないように点鼻薬を持った。全く格好の悪い姿ではあったが仕方ない。あわてて昼食を食べて再び病院に戻った。事務所に行くと段ボールが山積みされており、『こんなに沢山の荷物、車に乗るの?』『大丈夫?』と言う感じ・・・。
 電気の状況がどうなっているか解らないため、給食の○間さんから発電機を借りた。しかし、発電機を積んでしまうと他のものが詰めなくなってしまうため、置いて行くことにした。迷惑をかけて本当に申し訳なかったと反省する。

荷物

荷物で一杯に~みんなが手伝ってくれて車に荷物を積んでくれた。私物を乗せればもう一杯で、つくづくカローラバンでなくて良かったと思う。しかも荷物の重さで車の後方は下に沈んでいる。『重たそうだ!』
 13時45分 病院玄関から出発。運転手は○山さんだ。フッと車の窓から玄関を見ると、いつの間にか見慣れた病棟の師長をはじめ日勤のスタッフや管理棟にいた方々が見送りに駆けつけてくれていた。とてもありがたいやら照れるやら。そっと師長より病棟からの心温まる餞別を頂いた。「自分の出来ることを一生懸命やってきます」と言った覚えがある。
 ガソリンを入れる為にスタンドに立ち寄り、○沢先生を乗せるため国道を通って伊那市に向かった。先生を乗せてから携帯電話のシガライターからとる充電器を買うためにヤマダ電気に寄った。ついでに安いラジオも購入。15時伊那合同庁舎に立ち寄り「緊急車両の許可証」を頂き伊那インターから一路十日町市に向かった。ラジオからは震災の情報が次々に入ってくる。車の中ではみんなそれぞれ現場での寝泊まりに不安が有った。雨が降り続き高速道路は見にくかった。
 16時44分 豊田飯山に到着、ここからは国道117号線を通ってゆくことになる。インターチェンジでは合同庁舎からもらった用紙に所定の記入をして提出、コピーをして返してくれた。
 途中、十日町市に入る前にコンビニがあったので夕食を買った。「過酷な状況になるので、もう弁当は食べられない」と、車の中で騒ぎながら食べた。(ちなみに私は中華丼と野菜サラダ、暖めたご飯は美味しかった)
もうあたりは真っ暗で雨も降っているので運転しづらい状況だった。(助手席に乗っていたがそう思った)
 18時30分 地図を頼りに十日町市役所に到着。報道で見たことのある玄関だった。『新潟中越地震十日町市対策本部』と大きな立て看板が立ててある。玄関前の駐車場にはNHKや民放の中継車がエンジンをかけて止まっており、また取材陣の姿や物資輸送の車が出入りしている。足早に玄関を入って正面にある災害対策本部に行き、長野県から来た医療班であることを伝えると社会福祉事務所(フロアーは同じ場所)の保健予防課に案内された。玄関を入って左手の奥にある一角がこれからお世話になる場所である。市役所の中にも様々な物資が山積みにされている。後で解ったことだが、市役所が各避難所に配る中継基地の役目も果たしていることが解った。

報道風景
報道

  保健師の親玉の五十川さんという方が丁重に我々を迎えてくれた。五十川さん以下保健師はこんな状況は当然初めてである。五十川さんから「震災の救援を経験した人はいますか?」と聞かれた。出しゃばりかもしれないが阪神淡路での経験から、時間差で来る医療班をどのように振り分け指示するか、役割と連携が必要であり、現在携帯電話の時代で携帯が使用できるのであれば充分活用し、各チームとの連携や保健婦とのやりとりも必要になってくるので名前だけでなく、携帯番号も聞いておく必要があることを伝えた。(阪神淡路では携帯はあまり普及していなかった)
 避難箇所の一覧をくださるが60カ所もあるようだ。地図を基に現在の状況を話して頂く。十日町市役所の南方はあまりは害がないが北方に被害が多いようだ。市役所は所々よく見ればひび割れが見られるが倒壊のおそれは全くない。我々は十日町の中心部の10数カ所、特に避難所に大勢いるところを任された。内容は、避難所を車で移動し診療をするというやり方のようである。現在医療班で精神は駒○○病院のみで、一般科は今日の午前中に到着した県立須坂病院と日赤だけのようである。今後、精神は2~3チームに編成されるようである。
 保健師は担当地区の各避難所を訪問しているようである。神戸で見たような椅子にふんぞり返って腕組みをしている役人は見受けられない。不眠不休で働いている様子で疲れた表情が伺えるが、弱音を吐く人はいないらしい。
 次に市役所の地下にある食堂を案内された。食堂は当院の大会議室位の広さに売店と調理室があり、白い丸テーブルが六つほどならんでした。入り口にカップラーメン等か置かれている。五十川さんから自由に食べて良いと言われた。次に、宿泊する場所を案内された。市役所の三階にある議員会議室が医療班の宿泊場所となるようだ。もちろん市役所にはエレベーターは有るが使われていない。(余震が続くため二次災害を防ぐためだと思う)階段を使用して行くと、男女に部屋が分かれているが、その間に自衛隊の休憩室が設けられている。会議室はジュウタンが引かれているため冷たさはない。会議用の机や椅子は窓側に全てよせられている。これは強い余震が続いているので地震による窓カラスの飛散があっても大丈夫のようにしてあるのだ。また毛布も数多く置かれており、自由に使用して良いとのこと。一応シュラフは持ってきたが、このような場所と物品の提供は大変ありがたいことである。実際、テントや車での寝泊まりを想像してきたから当然である。既に須坂病院の医師や看護師、事務の方が来ており、茨城県の日赤のチームも居るようである。荷物を置き毛布を貸して頂き寝床を作った。○沢先生は、ホームページから災害   プリントアウトしたものを読み出した。窓から外を見ると十日町高校が見える。校舎の明かりは消えている。グランドの照明に映し出され、車が何台も停められており、所々にテントが見える。報道どおり、車で寝泊まりしている被災者が居るようである。それぞれの事情が有るのだろう。
 私は市役所の玄関にもう一度行ってみた。おりからの雨で玄関先に並べられている救援物資はブルーシートが掛けられている。駐車場の一角は自衛隊の車両がエンジンを掛けっぱなしで待機していた。みんなすれ違うたびに「お疲れさま」と声を掛け合っている。病院で職員同士でも挨拶をしない人がいるが、ここに来れば癖が付くかもしれないと個人的に思った。

自分の足と靴★宿泊に使用した会議室まだ到着してから時間はたっていないが、余震は感じない。ヤマダ電気で買ったラジオからは8時過ぎに余震があったと放送があった。
庁舎内のトイレはどの階も使用できるようになっていた。天井を見ると遮光用の板がはずれ落ちていた。また、タイルは所々にひび割れが見られる。
休憩

21時30分就床する。シュラフの中に毛布を入れるととても温かい。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line

新潟県中越地震 救援活動

10月25日 月曜日

この日は日勤であった。
ちょうど防災の研修があり○瓶総看護師長から新潟の話と「県からの要請があれば二班に分けて派遣もあり得る」というコメントもあった。
日勤から帰り18時過ぎたったと思う。
○瓶氏より電話があった。「27日に新潟へ医療班として行ってもらいたい。
場所については全く解らないがとにかく心づもりをしておいて欲しい」という内容だった。
活動内容もどんな内容なのかも決まっていないようだ。
『やっぱり私に・・・でも良い体験になるし、指名されるのはうれいし事だ。
防災担当でもあるからかな』なんて思っていた。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line

新潟県中越地震 救援活動

10月24日 日曜日

朝から新潟の地震の報道がどこのテレビ局も特番を組んで放送していた。阪神淡路の震災の救援活動の時の事を思い出した。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line

新潟県中越地震 

2004年(平成16年)10月23日(土)午後5時56分に新潟県中越地方を震源として発生した。
私がこの震災を知ったのは、ちょうど病院の野球部の納会を始める時間だった。
マネージャーが庄や(居酒屋)に入ってきて「今地震があったよ」と言った。
私は全く感じなかった。
一次会を終了した後、我々は相変わらずのメンバーで二次会へ、するとテレビで地震の報道を特番でやっていた。
この時、新潟で震度6の地震があったことを初めて知った。
ぼやけまなこで見たことを記憶している。
家に帰り早速テレビをつけてみたが、かなりひどい地震であった。
それから派遣が決まる迄の数日間、テレビは連日地震の番組を放送していた。
余震が続く中、大変な生活をしている避難民の姿や、時間がたつにつれて死者の数が増え、また孤立した人々の救出活動が映し出されていた。
また、今回の地震は本震のような余震が長い間続いているのが特徴のようである。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

line
line

line
プロフィール

ロキタマ

Author:ロキタマ
自画自賛へようこそ!

line
最新記事
line
リンク
line
カテゴリ
line
バナーリンク
line
月別アーカイブ
line
フリーエリア
line
FC2カウンター
line
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

line
QRコード
QRコード
line
sub_line
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。